長崎県立大学懲戒処分事件   県立大学発ベンチャー

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長崎県立大学発ベンチャー企業(バイオラボ社)ってどんな会社?

「長崎県立大学懲戒処分事件」の契機となった長崎県と長崎県立大学が創業時から支援していた大学発ベンチャー企業(バイオラボ株式会社)の起業から破産処理に至るまでの事業経緯と、破産後における長崎県と長崎県立大学の豹変した姿勢について検証するページです。
また、我が国における大学発ベンチャーの実態についても理解できるように、全国の大学発ベンチャーの企業実績についての情報を集めてみました。

0912251.jpgバイオラボ社中国研究所 (正面からの全景)
0912252.jpgバイオラボ社中国研究所(左側事務棟、右側研究棟)
0912253.jpgバイオラボ社中国研究所(事務棟正面)
0912254.psdバイオラボ社中国研究所(動物実験棟、敷地背面より)
0912255.jpgバイオラボ社中国研究所 (動物実験棟内部)
0912256.jpgバイオラボ社中国研究所(飼育室)
0912257.jpgバイオラボ社中国研究所(病理検査室)
0912258.jpgバイオラボ社中国研究所(会議室)

バイオラボ(株)の創業の経緯、そして長崎県立大学・長崎県・長崎市の関わりについて 
(長崎県立大学の勧めにより起業したベンチャー企業)

長崎県立大学発ベンチャー企業であった「バイオラボ株式会社」はどのようにして起業し、また、長崎県と長崎県立大学はこの起業にどのように関わっていたのでしょうか。
当初はバイオラボ社の事業計画を理解できないとしていた長崎県が、多くの投資会社、銀行・金融機関が評価して資金を提供するようになると一転してバイオラボ社を支援するようになりました。
長崎県が支援するベンチャー企業であることを知った長崎市と市議会議員はバイオラボ社を誘致しようと働きかけを行いました。
ここではバイオラボ社の起業当時における長崎県立大学・長崎県・長崎市の関わりを調べていきます。

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長崎県議会で可決されてから長崎県産業振興財団が実施した「長崎県大学等発ベンチャー創出事業」にバイオラボ社はビジネスモデルを応募 ⇒ 結果は不採択

 長崎県議会で可決され長崎県産業振興財団が実施することになった事業、「大学等発ベンチャー創出事業」、の初年度一般公募が2003年春にありました。当時、長崎県庁から派遣されていた県立長崎シーボルト大学(現 長崎県立大学)事務局長より長崎県の事業に県立大学として協力したいので先生のプランをぜひ応募して欲しいと要請されたことから久木野教授はバイオラボ社ビジネスモデルを「大学等発ベンチャー創出事業」に応募しました。事前には採択の可能性も小さくないだろうとの話も聞こえていたということでしたが、しかし、結果は不採択でした。
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「長崎県大学等発ベンチャー創出事業」に不採択となった後、起業に至った経緯

 「大学等発ベンチャー創出事業」に不採択であったことから久木野教授が起業を断念しようとした時、事務局長より「不採択の結果は残念であったが無駄にするには惜しいビジネスプランでありシーボルト大学発ベンチャー企業を実現したいので、事業に賛同してくれる出資者を一緒に捜して起業を実現しましょう」といった話があったとのことです。お互いの縁故を頼りに、出資に同意してくれる企業を捜したところ、2003年夏に出資に応じてくれる企業を見つけることができたようです。そこで、まず研究者仲間が資金を出し合ってまず株式会社を2003年10月に設立し、半年ほどかけて事業の具体的実現可能性を調査することになりました。
 一方、バイオラボ社の創業を知った長崎県産業振興財団の大学発ベンチャー担当者は久木野教授を頻繁に訪れるようになり、長崎県産業振興財団と長崎県はともにバイオラボ社の事業を支援するようになりました。
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長崎では理解されなかったビジネスプランであったが、プロの投資会社には評価されて本格的に事業が進むことに

 バイオラボ社が設立されてから一年ほどの期間は事業の実現可能性を調べる作業がほとんどだったようですが、ある程度ビジネスとしての実現性が信じられるようになったことから、2004年春には事業を具体的に進めるための資金を募るためにプロの投資会社であるベンチャーキャピタル(VC)に出資を求める方針を立てることになったようです。
 一方、2004年6月11日、事務局長と久木野教授が共に県立長崎シーボルト大学(現 長崎県立大学)学長および学部長に事業内容を説明したところ、大学としても有益な構想であるとの賛同を得、それ以後大学は協力を惜しまない姿勢を明確にしたようです。
 2004年当時、長崎県を含め九州内にもいくつかのVCがあったことから、バイオラボ社はまずそれらのVCに事業説明を行って投資を申し入れました。しかし、いずれのVCからも、自分らではバイオラボ社のビジネスモデルが事業として成立するかどうかの判断ができない、との正直に返事をしてくれたようです。バイオ領域専門の目利きができるVCは全国でも少なく、当時は東京に3社あるだけと言われていたとのこと。当初(実は現在に至るも同じような事情だということですが)、長崎県内でバイオラボ社の事業を評価できるVCはなかったようです。自治体職員からなる長崎県産業振興財団がバイオラボ社のビジネスモデルを評価できるはずもありませんので第1回「大学等発ベンチャー創出事業」に不採択となったこともそれほど不思議なことではなかったわけです(長崎県議会が求めるような、ベンチャー企業を指導監督できる自治体職員など存在しないでしょう。もしあるならば第三セクターでベンチャー企業をいくらでも作って長崎の産業振興を行えば良いわけで、ベンチャーの苦労はないことになります。ベンチャー企業というものを基本的に理解していない議論が長崎県議会で平気でなされているようで、そのこと自体、我々にも驚きです。)。
 そこで、バイオ領域を専門とするVCに事業を評価をしてもらう必要があるとバイオラボ社は判断して、VCを探すことになったとのこと。この時期にはバイオラボ社への協力を惜しまなかった長崎県産業振興財団のインキュベーションマネージャー(IM)のI氏が東京のバイオ専門VCを紹介してくれることになり、事業を評価してもらった上で投資を要請したところ2004年7月に出資を受ける事になったようです。
 その後は多くのVCがバイオラボ社の事業を評価するようになり、これらVCからの出資を受け入れることになったとのことでした。バイオラボ社の資本金の多くはこれらVCからのもので、県からの投資はそのごく一部であったようです。
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前年から姿勢を一転、長崎県産業振興財団は第2回「長崎県大学等発ベンチャー創出事業」に応募するようバイオラボ社に要請 ⇒ 応募した結果は採択

 2004年7月、第2回「長崎県大学等発ベンチャー支援事業」の募集が間近になった頃、前年に不採択を決定した態度とは一転して長崎県産業振興財団は、応募する予定は無いと断るバイオラボ社に対して、何とか「長崎県大学等発ベンチャー支創出事業」に応募してもらいたいと働きかけを行ってきたとのことです。
 複数の企業とVCからの出資を得て創業作業に入った最中の多忙さと人員不足の事情により第2回「長崎県大学等発ベンチャー支援事業」に応募するゆとりは無いとのバイオラボ社の断りに対して、ベンチャーキャピタルも認めているビジネスプランは長崎では他には無く、昨年の不採択ビジネスプランが他のベンチャーキャピタルの支援を受けて成功したとなると財団や長崎県としても困ることになるので、これまでの協力を考慮してぜひ応募して欲しいとの要請だったそうです。
 そこで、バイオラボ社は応募に関わる作業を手伝ってもらえるならばとの条件でバイオラボ社は了承し、申請書に必要な情報や書類を長崎県産業振興財団に提供して申請書の作成作業を一緒に行って、第2回「長崎県大学等発ベンチャー支創出事業」に応募したようです。
 7月26日に審査会でのプレゼンテーションを行った結果、採択が決定して8月5日に交付式を受ける事になりました。
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長崎県が支援し、多くのVCから出資を受けているベンチャー企業の存在を知った長崎市は企業立地奨励金を利用したバイオラボの誘致を働きかけてきました

 2006年、長崎県がバイオラボ社の支援に熱心であった当時、長崎市会議員(現長崎県議会議員)のJ氏が長崎市で新たに創設された企業立地奨励金を使って長崎市内にバイオラボ本社研究所を誘致したい、ついては市長に紹介するので会って欲しい旨の提案をバイオラボ社に持ちかけました。そこで、挨拶を兼ねて久木野教授は長崎市商工部の責任者と打ち合わせ、また求めに応じて長崎市長にも面談し、各々バイオラボ社事業の概略を説明しました。長崎市はバイオラボ社に関する問い合わせを長崎県などに行ったりした後、ほどなくより、長崎市商工部責任者らと長崎市長はバイオラボ社を熱心に誘致するようになり、企業立地奨励金の第一号利用者となって長崎県内に本社研究所を設置して欲しいとの要請をしてきたとのことです。
=====長崎市長からの企業誘致文書はこちら==060323.pdf
 また、2006年4月18日、予てより長崎県知事が浙江省書記(当時の浙江省No.1。現在の中国国家副主席)にバイオラボ社の中国内活動に特段の配慮を願う旨の親書を2度にわたって送っていたことに対する返礼としてバイオラボ社中国研究所地元政府一団からなる中国訪日団が長崎を表敬訪問した時、にはマスコミを入れて中国訪日団が長崎市長を訪問する様子を報道したいとの長崎市長の要請に応えるためバイオラボ社は中国訪日団を長崎市庁舎に案内して長崎市長への表敬訪問を実現しました。長崎市長はその席でも中国側に歓迎の言葉とともにバイオラボ社の誘致に取り組んでいる旨の発言を行っていたそうです。その夜の長崎県が開いた歓迎会には長崎県立大学に加えて長崎市からも商工部理事が出席するなど、長崎市の熱心なバイオラボ社誘致の続けられていたようです。
=====中国訪日団の長崎表敬訪問はこちら==090905.pdf

バイオラボ(株)が取り組んでいた事業のあらまし 
(詳しくは下の各項目をクリックして下さい)

バイオラボ社の事業計画(ビジネスモデル)

バイオラボ社の事業計画(ビジネスモデル)

「バイオラボ株式会社」とはどんな事業を行っていたベンチャー企業だったのでしょう。バイオラボ社のビジネスモデルとはどのようなものであったのか見てみましょう。

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バイオラボ社の目指したビジネスモデルとは産学官連携による国際競争力のある受託研究機関でした。

ゲノム創薬に対応可能な商用のサル等大型動物用バイオセーフティー研究施設が日本国内に無い状況の中、日欧米の需要に応えることができる国際競争力のある受託研究機関となることを目指してバイオラボ社が創業されました。

 日本と中国に役割分担した研究所を設置して、日欧米の需要を満たせなくなったサル等大型動物の創薬試験を、①タイムリーに、②日欧米国際基準の技術で、③低コストにて、実現することで国際競争力のある受託研究事業を作り上げようとしたものです。

 また、バイオラボ社は事業を成功させることで、大学の人材育成に貢献し、また長崎に新しい産業を振興させることを目的にしていました。
 さらに、日中の学術交流に貢献するため中国研究所では中国人顧問などのコーディネートで研究会の開催、招待された講演に出席するなど現地交流も開始していました。
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=====バイオラボ社の事業計画について詳しくはこちら==0910261.pdf
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ビジネスモデルを成功させるための4つのハードル

ビジネスモデルを成功させるための4つのハードル

バイオラボ社のビジネスモデルを成功させるためにはどのようなハードルやリスクがあったのでしょう。
ベンチャー企業であるバイオラボ社のビジネスモデルを成功させるためにクリアしなければならないハードルはいくつもあったようでが、もっとも大きなハードルは次の4つだったようです。

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第1のハードル
「中国国内において霊長類実験動物を使える世界基準の研究所を設置するための許認可を得ること」

 この時期、中国は日欧米が独占している製薬事業への参入を国策として推し進めようとしていました。一連の製薬研究の中でも前臨床試験段階における優位性を霊長類実験に位置付け、この周辺技術の発展に力を注ぐ方針にありました。日欧米諸国は中国内での霊長類実験に興味があるものの、中国政府が外国資本による創業(中国では独資企業と言います)を認めないことから合弁や合作(いずれも中国人が経営参入する形で、数年以内には実質的経営は中国人に握られる結果となる)といった形態で中国進出の足がかりを得ようと試験的な起業を行っている段階でした。
 このような中国内の状況にあってバイオラボ社は、ビジネスモデルを確立するために、研究所を独資企業として設立することが必要だったようです。バイオラボ社を起業した当初より、このことが最も大きなハードルになるであろうと役員らは考えていたとのことです。

第2のハードル
「日中両研究所の施設設備費を確保するための資金繰りに成功すること」

 事業を始めるための形態からすると、金融機関がいうところのいわゆる装置産業に類するビジネスモデルであるため、バイオラボ社は先行投資型企業でした。そのため、収益事業か開始されてから一定の時期まではずっと収益赤字が続きますのでそこを乗り切るまでが事業の成否を分けるビジネスといえます。したがって、初期投資が大きく、十分な収益が上がるまでの期間は運転資金の調達が事業成功の成否を決めるベンチャー企業だったということです。
(装置産業: 例えばメーカーのように商品を作って売るためにはまず資金を投じて工場を作る必要があり、それから営業、販売、収益をあげる先行投資型の産業。創業当初に相応の投資が必要であり、工場が順調に稼働して十分な収益が上がるまでの当初運転資金なども用意しなければならない。一方、ITソフト産業などのようにパソコンと事務所があれば創業できる事業、あるいは仕入れ販売業のような事業の場合は施設設備のための先行投資はほとんど必要ないため、創業当初から収益事業が開始でき、比較的創業のハードルは低いといえる。バイオラボ社は受託研究機関であるため、当然研究所を先ず設立し、研究員を集め、ハードソフト両面から研究体制を整え、それから収益事業が開始される。したがって、創業時の施設設備投資に加え、事業開始後に収支が黒字化するまでの当初半年ほどの運転資金が必要になる事業である。

第3のハードル
西の果てともいわれる長崎県に必要な実験技術を持った研究員を集めること」

 バイオラボ社の事業を進めるためには動物実験技術を持った研究員を確保しなければなりませんが、決して立地条件が良いとは言えない長崎県に事業規模に合わせて必要な人材を確保していくことは、たいへん困難な作業であることがバイラボ社内では予想されていたとのこと。バイオラボ社に出資してくれた投資会社の多くからは、ヒトと資金を集めることが難しい長崎県で事業を進めることのリスクは何度も指摘されていたようです。

第4のハードル
最後の資金調達として、研究員を採用して研究所を稼働させた後、収支が黒字化するまでの当初半年間の運転資金を確保するための資金繰りを成功すること」

 中国と日本の研究所が完成し、研究員を採用して研究所を稼働しても、本格的に収益事業を開始するまでにはソフト、ハードの研究体制の整備と施設のデータ収集にしばらくの準備期間が必要だそうです。収益事業を始める前に施設内における動物や飼育環境のバックグラウンドデータ(予備試験の結果)を集めて、それをクライアントに提示して始めて実際の営業活動が進められるということです。そのため受託した試験研究が順次開始されて収支が黒字化するまでの間、計画ではおよそ半年間ですが、運転資金を要することになります。この運転資金の調達が最後の資金調達となる予定だったそうです。

その他のハードル

この4つのハードル以外にも創業期のベンチャー企業であるバイオラボ社には、長崎本社研究所の準備、営業体制の整備、中国研究所地元政府との関係強化、社内体制・規程の整備、日中連結会計の整備、など数え切れない課題があり、多くのベンチャー企業がそうであるように常に倒産の危険と背中合わせで事業を推進していかなければならなかったようです。
 ハイリスク、ハイリターンはベンチャー企業の宿命ですし、ベンチャー企業への投資とはそれを理解して自己責任を全うできる者が行う行為なのでしょう。我が国では、ベンチャー事業を理解してその企業に出資してくれる投資家を探すこと、そして出資を得ることがベンチャー企業の最も大きなハードルとなっているようです。しかし、新規産業であるベンチャー事業の評価は首都圏ではともかくも、人材の少ない地方では事業自体を理解されることが難しく、ベンチャー投資は地方では実現しにくいのも確かなようです。往々にして、事業がうまくいきそうに見える時には出資参加して支援する、一転、失敗しそうになると投資家責任を忘れて企業に責任を迫る、そうした地方自治体職員の体質もベンチャー企業を生み出せない地方の事情なのだとこの業界では指摘されているそうです。
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第1のハードル
「中国国内において霊長類実験動物を使える世界基準の研究所を設置するための許認可を得ること」=クリア

第1のハードル=====「中国国内において霊長類実験動物を使える世界基準の研究所を設置するための許認可を得ること」
================クリア

バイオラボ社のビジネスモデルを成功させるためのハードルであった中国研究所の設立がどのように進められていったのか。結果として目的の許認可の取得に成功したのですが、その経緯を見ていきます。

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「中国国内において霊長類実験動物を使える世界基準の研究所を設置するための許認可を得ること」については計画に従って研究所の設立に成功した。

 バイオラボ社が中国へ進出しようと計画していた時期、中国は日欧米が独占している製薬事業への参入を国策として推し進めようとしていました。一連の製薬研究の中でも前臨床試験段階における優位性を霊長類実験に位置付け、この周辺技術の発展に力を注ぐ方針にありました。日欧米諸国は中国内での霊長類実験に興味があるものの、中国政府が外国資本による創業(中国では独資企業と言います)を認めないことから合弁や合作(いずれも中国人が経営参入する形で、数年以内には実質的経営は中国人に握られる結果となる)といった形態で中国進出の足がかりを得ようと試験的な起業を行っている段階だったそうです。
 このような中国内の状況にあって、バイオラボ社は長年の長崎県と上海地方の友好関係を基盤とする地方政府間の働きかけ、とりわけ長崎県知事から浙江省書記であった习(習)近平(現在の中国国家副主席で当時は浙江省書記であった書記に送られたバイオラボ社の創業に対して配慮を求める二回の親書、およびその後に行われた書記への表敬訪問によって、习(習)近平書記の支持を得たことで浙江省嘉善県に独資企業としての研究所創業許可を得ることに成功しました。バイオラボ社は中国国内にて霊長類実験が可能な試験研究所を持つ初めての外国独資企業となったわけです。また、今現在においても日本の大手受託研究会社が中国進出を進めるべくこの許認可を得ようとしているが、中国政府の同意が得られない状況にあるとの情報もあります。バイオラボ社の得た許認可は極めて希有な例であったことが分かります。
 バイオラボ社が大手企業にも不可能であった独資研究所の設置を許可された理由はいくつか考えられます。一つは前述したように長年の長崎県と上海地方(上海市、浙江省、江苏省のいわゆる長江デルタ地帯のこと)との友好関係から長崎県立大学発ベンチャー企業を好意的に中国側が受けとめてくれたことだったそうです。日本の地方知事が上海を訪れても上海の書記などは出てこないそうですが、長崎県知事が訪問するとトップが対応してくれるとのこと。あまり知られていないことですが、日中国交が回復した時に最初に飛んだ旅客機は上海〜長崎便でしたし、日本に4つしかない中国総領事館の一つは今でも(ドライに考えれば現在も長崎に置いておく理由は少ないのでしょうが、その辺は個人も組織も付き合いを大切にする中国らしいといえます)長崎にあります。バイオラボ社の件では長崎の中国総領事も浙江省書記に依頼文書を出してくれたとのことです。当時の浙江省書記は習(习)近平氏が務めており、氏の前任地は長崎県の姉妹都市である福建省の省長だったことから長崎県知事とも面識がありました。習(习)近平氏は現在の中国の国家副主席であり、次期主席候補者と目される中国の要人中の要人で、当時も浙江省では絶大な影響力を持つ政治家として知られていました。その習(习)書記を始めとする浙江省代表者らに長崎県知事(出発当日に長崎を襲った台風のために知事は長崎を離れることが出来ず、急遽商工労働部理事が代行したが)と長崎県立大学幹部が表敬訪問を希望し、それが受け入れられことが、極めて困難であった許認可の取得実現に大きな力となったことは間違いありません。
 浙江省迎賓館に招かれて当時将来を嘱望されていた浙江省書記であった習(习)近平に直接面談できたのは長崎県知事の依頼に加えて在長崎中国総領事の協力(債務者大学事務局長が総領事館を訪れて総領事より習(习)近平書記にバイオラボ社への協力依頼を行ったもらっていた)があって始めて実現できたものでしょう。この席で習(习)近平書記にバイオラボ社事業への協力要請が出来たことによって始めて中国初の外国独資による生物実験研究所の設立が実現できたと考えられます。なにしろ今現在においても中国国内においてバイオラボ社が取得した霊長類動物実験の実施を許された外国独資企業はなく、このことを見ても長崎県と県立大学の強力な後押しがあってのバイオラボ社事業であったことが理解できます。
 習(习)近平書記の協力が得られることになったことが原因してか、バイオラボ社中国研究所は浙江省重点プロジェクトに採択されてその事業活動は浙江省の支援を受ける事になり、独資起業として活動するに際して税制面などにも優遇を受ける事ができるようになりました。
 中国研究所の起工式には、長崎県、長崎県産業振興財団と長崎県立大学(当時、シーボルト大学)、および中国側地元政府書記などが列席し、異例な扱いで地元中国でもニュース報道されました。
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=====中国研究所の許認可(批准書、営業許可書、消防検査済証)はこちら==050531.pdf==050610.pdf==070829.pdf
=====浙江省重点プロジェクトに採用された時の調印式の様子はこちら==050824.JPG
=====习(習)近平書記への表敬訪問の様子はこちら==DSCN0009.jpg
=====中国研究所の起工式はこちら==050908.pdf
=====中国でのニュース報道はこちら==
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第2のハードル
「日中両研究所の施設設備費を確保するための資金繰りに成功すること」=クリア

第2のハードル=====「日中両研究所の施設設備費を確保するための資金繰りに成功すること」
================クリア

日中両研究所の施設設備費を確保する活動はどのようであったか。この資金調達を達成した経緯を見てみます。

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日中両研究所の施設設備費を確保する活動

 創業後にビジネスモデル成功の可能性を探る一連の調査を行った結果、事業に一定の可能性があるとバイオラボ社では判断されて、日中の研究所設立に要する施設設備の確保のための活動を続けることになったそうです。
 主に、東京にあるベンチャーキャピタル(VC=投資会社)に事業計画を説明して投資を要請することで自己資金を得ることと、銀行等金融機関に資金調達を要請することで、中国研究所と日本の本社研究所の施設設備を整備する資金を集めることができたようです。
 起業の当初、長崎県において出資や融資を要請したものの、バイオラボ社の事業を評価してその実現性を判断できる機関が見つからなかったことから、東京に出向いて、当時国内では3社しかないと言われていたバイオベンチャー事業の目利きができるVCに投資を要請することになったようです。その結果、投資についての合意が得られたことから、日中両研究所の設置資金を本格的に調達する活動を始めることになったようです。そして、これを皮切りに多くの投資会社から出資を受ける事になりました。
 中国における事情の変化(SARSや鳥インフルエンザの流行で当初計画であった広東省での研究施設をレンタルする計画の頓挫、次期計画の前倒しであった上海での研究所設置も営業許可の関係で施設レンタルが不可能となるなど、事業計画の変更を迫られる事態が続いた)にともなって施設の設置方法を変更したり日本の本社研究所の設置場所と設置方法を変更するなど、度重なる事業計画の変更が必要となり、見込まれる施設設備費も変更されたようですが、最終的に確定した資金確保までは追加増資で何とか実現できたとのことです。
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=====増資による資金調達の経過はこちら==
=====竣工した中国研究所はこちら==091222.pdf
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第3のハードル
「必要な実験技術を持った研究員を集めること」=クリア

第3のハードル=====「必要な実験技術を持った研究員を集めること」
================クリア

バイオラボ社の研究事業を実施するためには、必要な実験技術を持った研究員を集めることが重要であったとのこと。

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長崎県に必要な実験技術を持った研究員を集めることに成功した経緯

 バイオラボ社の事業を進めるためには特殊な動物実験技術を持った研究員を確保しなければならないようです。霊長類の実験技術を有する研究員は極めて少なく、決して立地条件が良いとは言えない長崎県にバイオラボ社の計画する事業規模に合わせて必要な人材を確保していくことは、たいへん困難な作業だったと思われます。あらゆるコネクションを使っても、人員の勧誘には長い期間とたいへんな労力が必要だったようです。久木野教授が最も時間と労力を費やした作業であったと話していました。しかし、会社顧問の先生方(全国的に著名な専門家が顧問となっていました)の協力もあって、長崎県に必要な研究員を集めることに成功し、研究体制を構築することができたようです。
 バイオラボ社に出資してくれた投資会社の多くからは、ヒトと資金を集めることが難しい長崎県で事業を進めることのリスクを何度も指摘したようですが、それらのハードルをクリアするためのバイオラボ社の努力は並大抵ではなかったようです。
 本来はこのような苦労はベンチャー企業のいずれもが経験していることなのかもしれませんが、創業の苦労といったものは当事者以外の第三者にはなかなか理解できないもののようです。
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=====バイオラボ社の研究員体制はこちら==0910264.pdf
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第4のハードル
「収支が黒字化するまでの当初半年間の運転資金を確保するための資金繰りを成功すること」=クリアできず

第4のハードル=====「収支が黒字化するまでの当初半年間の運転資金を確保するための資金繰りを成功すること」
================クリアできず

研究所を稼働させて収益事業が開始されてから後、収支が黒字化するまでの当初半年間の運転資金を確保する活動はどのようであったか。結果として、このハードルを越えられずに事業の継続は断念されることになった。

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研究所を稼働させて収益事業開始されて後、収支が黒字化するまでの当初半年間の運転資金を確保することに失敗

 2008年1月〜3月ころ、最終の資金調達となる収益事業開始当初の運転資金確保のための増資の準備が進められていました。東京にある投資会社などを対象に出資の要請を行っていましたが、数社より前向きの返事をもらっていたことから増資の具体的作業を進めようとしていたようです。しかし、4月に入るとすぐ、投資会社各社は新年度の投資資金をほとんど凍結させることを決定し、ベンチャー企業に伝えるようになっていました。東京のどの金融機関でも確認できたことですが、サブプライムローンに端を発した金融危機の煽りを受けて日本で運用されていたアメリカの投資資金が一斉に凍結(その後数ヶ月後には回収に転じたことも周知の事態です)、国内投資会社は新年度の新規投資を事実上中止していました。バイオラボ社が交渉していた投資会社も例外ではなく、バイオラボ社の事業評価と関わりない社内事情を理由に投資できない旨の連絡が相次いであったとのことです。予定していた増資金額の半分しか確約できていない状況では、投資説明責任上そのまま増資を進めるわけにもいかず、事実上最後の増資に失敗するという事態になったようです。既存株主にも支援を要請したものの、投資会社の事情はいずこも同じであったようで、最後まで支援を受ける事は叶わず、資金調達の目処が立たなくなったことから、やむなく破産を申し立てることになったようです。
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=====この時期の投資環境の様子はこちら==
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裁判所への破産申し立て

判所への破産申し立て

過剰投資、放漫経営が破産の原因であるかのように長崎県産業振興財団が広報し、一部県議会議員らによって喧伝されてきましたが、資料等に基づいて事実として明らかにされている破産の原因を調べた結果は以下の通りでした。
すなわち、長崎本社研究所が稼働して収益を上げるようになり、また、中国研究所が予備実験を開始した時期に、最後の運転資金の調達(上記、第4のハードル)に失敗したことからバイオラボ社は資金繰りに窮し、事業継続を断念、裁判所へ破産申し立てを行ったことが確認できました。

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裁判所への破産申し立て

 バイオラボ社は研究所の稼働と研究員の確保を果たし、収益事業を開始していました。また、取引先企業との契約も徐々に締結され、営業活動も進められていました。しかし、サブプライムローン問題が契機として国内投資資金が凍結される環境となったことから予定していた創業期の運転資金確保に失敗して研究所創業間もなく資金繰りに窮することになり破産に至りました。詳しくは裁判所に申し立てた書面に書かれていました。
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=====裁判所への破産申し立て書はこちら==081014.pdf
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